:夏季休暇の総括
- 明日まで休み。
- いくらなんでも暇すぎる。贅沢ね。
- だから、古書店から「ちょっと読むのは無理だろう」と思える量の本を仕入れてきて、
- ひたすら読む。
- まさにネクラの王道
- でも、小生は思うわけさ、
- 本を読まない人って、暇な時間何しているんだろう?と。
- 少なくとも、小生は本を読むくらいしか、することない。
- 8時に起きて、メシを食いながら新聞をざっと読んだら、
- 8時40分には再びベッドに入って14時くらいまで読書。
- その間、睡眠と覚醒を繰り返す。
- 小腹が空いてきたら、チキンラーメンを作り、ネットニュース見ながら食べる。
- で、三度ベッドインして、夕食まで本を読む。
- 時間の前後はあるにしても、このような日を3/9日過ごした。
- さすがに、こうして過ごした当日〜翌日は身体がだるくなるので、
- 外に出て――と言っても大概は本屋なんだけどねww――リフレッシュをはかる。
ヴィクトワール・フランクル『夜と霧』
- 作者: V.E.フランクル,霜山徳爾
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1985/01/22
- メディア: 単行本
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- 「一心理学者の強制収容所体験」である。
- 小生は世の中に「必読書」はないと思っている一方で、
- それに近しいものは存在するとも感じる。
- V・フランクル『夜と霧』はその1冊にしてもいいんじゃないか!?
- って27年間読んで来なかったけどww
- アウシュヴィッツを含めた強制収容所における「全て」が書かれている。
- 「全て」というのは、「以上でも以下でもない」ということだ。
- したがって、個々人が要約することすら、小生は僭越だと思うので、
- ポストイットが貼ってある箇所を引用する。
「……ある夜私は私の傍で寝ていた同僚が、明らかに恐ろしい悪夢のために、大きな声でうなされながら転げ廻っているので目を覚ました。私は元来、何らかの不安な妄想観念やあるいは夢の表象によって苦しめられる人間に対し、特別に同情を感じる人間であった。だから、私は最初はこの憐れな悪夢に悩まされている仲間をまさに揺り起こそうとした。その瞬間私は私の意図に驚き、揺り起こそうと伸ばした手を慌てて引っ込めたのであった。なぜならばその瞬間に、如何なる夢も、たとえ最も恐ろしいものでさえ、収容所でわれわれを取り囲んでいる現実(中略)に比べればまだましであるということが、強烈に私の意識にのぼったからである。」111〜112頁 (太字:小生)
「なあ君、もしわれわれの女房が今のわれわれを見たとしたら!多分彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今のわれわれをの状態を少しも知らないといいんだが。」
すると私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから、われわれが何キロメートルも雪の中をわたったり、凍った場所を滑ったり、何度も互いに支えあったり、転んだり、ひっくり返ったりしながら、よろめき進んでいる間に、もはや何の言葉も語れなかった。しかしわれわれはその時各々が、その妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る――そしてたとえそこにいたくても――彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の現存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそして――信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救い――これである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間は――瞬間であれ――愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状況、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることをと言えばこの上ないその苦悩に耐えることであるような状態――このような状態におていも人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず観て浄福である、と言われていることの意味を私は生まて始めて理解したのである。」122-124頁 (太字:小生)
「若干の囚人において現われる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。アウシュヴィッツからバイエルンの支所に鉄道輸送させる時、囚人運搬車の鉄格子の覗き窓から、丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を青い手いるわれわれのうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片付けられてしまっている人間の顔とは、決して信じ得なかっただろう。(中略)われわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色ぁら真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が写っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。」126〜127頁 (太字:小生)
「……囚人の対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくはニーチェの「何故生きるのかを知っている者は、殆どあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。」(中略)
「ここで必要なのは生命についての問いの観点変換なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるのかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転換が問題なのであると云えよう・すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなく、われわれに毎日毎日問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。」182-183頁 (太字:小生)
- 小生の浅はかな印象としては、下記の通りである。
- 記
- 人間の適応力ってスゴいな。(「(人間は)すべて慣れ得るもの」96頁)
- 人間が「真理」に肉薄できるのは、要するに極限状態じゃないと難しいかもしれない。
- 「もはや人の心を動かすことができなくなる」(102頁)にもかかわらず、
- 自然って人間を圧倒するらしい。
- 調子に乗ってキェルケゴールの『死に至る病』も読んでみたが、こちらはさっぱりわからんかった。
- 仕事は精神的に辛いけど、頑張るか〜。
- 以上。
草薙厚子『僕はパパを殺すことに決めた』
僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実
- 作者: 草薙厚子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/05/22
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 53回
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- これは様々は物議を呼んだ、曰くつきのノンフィクション。
- 疾うに「絶版」になっており、3年間探し続けていた。
- 過去yahooオークションで購入を画策したが、4,000円前後で推移しており、
- とてもじゃないがそこまで出す気にはならない。
- 今現在も残り時間11時間で3,000円だから、どうしても読みたい人は絶対数いるらしい。
- 京都のさる本屋にてこの本が大量に並んでいたときにどうして買わなかったのか、
- たびたび後悔してきた。
『僕はパパを殺すことに決めた』をめぐる各々の見解及び声明
- 講談社見解2007.10.7(http://www.kodansha.co.jp/emergency2/index.html)
- 調査委員会報告書2008.4.7(http://www.kodansha.co.jp/emergency2/report.pdf)
- 講談社見解2008.4.9(http://www.kodansha.co.jp/emergency2/opinion.pdf)
- 草薙見解2008.9.26(http://www.kodansha.co.jp/emergency2/report_author.pdf)
- 図書館問題研究会全国委員会声明2007.9.17(http://www.jca.apc.org/tomonken/papaseimei.html)
- 忘れかけていたころにようやく見つけた、ブックオフで500円成。
- 1店舗、ほぼ全ての書架をスクリーニングする超暇人である小生だからこそ成せる技。
- で、肝心の内容はいうと、ノンフィクションとしてはもちろん、
- フィクションであったとしても読むに値しない。
- 不当に入手した資料に基づいてなされる推論は、前提が既に崩れており、
- 「表現の自由」「知る権利」云々以前のステージだからである。
- 筒井康隆がの『狂気の沙汰も金次第』だったか『笑犬樓よりの眺望』だったかわすれたが、
- その筒井が「スポーツマンシップはその意味がよくわからない」云々と書いていたのが印象深い。
- 同様に、小生は「ジャーナリズム精神」の意味がさっぱりわからないのだ。
- 何かしら尊い精神のように聞こえは良いが、
- 覗き見主義とでも言おうか、誰にでもある俗物根性ですな。
- これとほぼ同値じゃなかろうかと。
- 草薙が操作資料を入手した経路も問題だが、
- 書籍上での草薙の立ち位置はもっと問題に感じる。
- ジャーナリスト?としての草薙の決定的な欠如は、大局的見地の希薄さにある。
- つまり、ひとつの切り口が真だと思い込み、他の可能性を排除する。
- 例えばこんな記述。
「少年は父親を殺す武器を、竹刀に決めた。どう考えても、竹刀より包丁のほうが武器として合理的である。包丁からバット、バットから庭石、そしておもりの入った竹刀……。どんどん凶器としての現実味がなくなっている。しかも凶器について自分なりにシュミレーションする際の心の動きが淡白すぎて、強い違和感を覚える。このあたりの異常性には、少年の持つ「ある特質」が影響している可能性が高い。」 42-43頁 (太字:小生)
- これは「広汎性発達障害」という結論ありきだから。
- 小生の場合、包丁から竹刀に変遷した凶器について「強い違和感」を伴わない。
- 村上春樹の『アンダーグラウンド』はノンフィクションとしては一級品だと思う。
- なぜ小生はそう思うか?――
- なぜなら村上の意見なり見解なりがほとんど記されていないからだ。
- つまり、当事者及び関係者の膨大なヒアリングを読者に提示し、
- それらを読んでどう考えるかは読者に委ねている。
- 確かに、ジャーナリスト?だったら、自分の意見なり結論を提出しなければならないだろう。
- ただし、ひとつの方向へ誘引するのは、その地点で存在意義を失う、と小生は思う。
- しつこいな。
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