:メガネの自由意志論――小生がメガネを愛し、メガネもまた小生を愛する関係――



「メガネ君」はバカにされて何ぼ

 メガネをめぐる表象は、近年劇的な変化を迎えるに至った。これまでメガネに付き纏っていたダサいという否定的なイメージから、「かっこいい」「かわいい」など肯定的なイメージに転換した。しかしながら、人生の74%をメガネと共に生活してきた小生からすると、全然納得していない。というのも、「メガネ君」が必ず経るであろう「メガネ君」という一種の侮蔑を、にわかメガネさんたちは経験していないからである。真のメガネ君たるもの、「メガネ君」であることを馬鹿にされ、嘲笑され、そして人格的に歪んでこそ、メガネ君がメガネ君足りえるのである。




メガネの特性を抽出

 メガネをかけている人間の表象を、特性(因子)別に抽出してみた。

  • ダサい、神経質、ドジ、暗い、不健康、変わり者、冷徹、非社交的な、内気、オタク
  • 知的な、もの静か、生真面目

 これらは、分裂気質の人間の特徴である。メガネキャラにデブは少ない。非力な感じの痩せが多い。だから、因子も重複するんだと思う。小生がこんなことをしなくても、世間にはいろいろ考察している人がいるもので、「ベタな眼鏡キャラの法則」(http://wiki.chakuriki.net/index.php/ベタな眼鏡キャラの法則)ってのがある。ここでおよそイメージは抽出できていると思う。




眼鏡=不幸論 〜メガネは不幸の象徴のままでいい!〜

 「メガネ君」の典型にのび太がいる。いや、のび太が「メガネ君」のイメージを強化したのかもしれない。卵が先か鶏が先かは小生ではわからない。もう一人、則巻アラレっていう対照的なキャラがおるけれども、規格外のキチガイでしょ。まあ、ロボットと言っちゃえばそれまでだけど。ただ、メガネ君あるいはメガネちゃんは、多くの場合、その物語の中であまりいい待遇じゃない。むしろ冷遇されていることが圧倒的だ。マスオなんて磯野家の奴隷であり、サザエの奴隷であり、カツオのパシリである。アニメには描かれていないが、漫画におけるマスオは神経症であり、サザエの癇癪に耐えるため、精神安定剤を服用しているのである。


 先週末に2つの作品を観た。ひとつは漫画『fine』(信濃川日出雄)。もうひとつがアニメ『秒速5センチメートル』(新海誠)。はっきり言って、いずれも齢27のオッサンが観る、あるいは読むようなものじゃない。作品の巧拙は別にして、2作とも印象的なメガネちゃんが登場する。



漫画『FINE』の斉藤の場合

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 斉藤は不思議ちゃんである。そして情緒不安定である。衝動的にセックスもする。作者の意図なのだろうが、ときどきその心理状態がわかりかねる時がある。メガネキャラの王道を突っ走っている感がする。紆余曲折があって、最終的にこの斉藤は自殺を図る、マッキーの「どんなときも。」を歌いながら。メガネちゃんは幸福にはなれない。自殺は未遂で済み、斉藤は新たな生活を始めるんだけど、小生は最終話の斉藤の描かれ方に注目している。結婚し、妊娠している斉藤は、メガネをかけておりません。フツーの主婦になっている。つまり、メガネを外すことによって、作者は斉藤の幸せと自我の確立を表現しているわけ。メガネを外したら変身!ってのはよくあるパターン。だから、それ故、メガネをかけている斉藤は、どこまでの不幸なわけだ。



アニメ『秒速5センチメートル』の水野の場合

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 水野の出演時間は、たぶん、1分にも満たない。そして、セリフは「はい」の一言である。小説『秒速5〜』より、水野の描写を引用。


眼鏡と長い黒髪のせいで一見地味に見えるのだけれど、よく見ると顔立ちはびっくりするくらい整っていた。肌を隠すような服装も口数のすくなさもどこか恥ずかしそうな仕草も、まるで「綺麗になんて見られたくない」と思っているかのようだった。(註―太字は小生)

 文章で読む限り、水野は美人である。「綺麗になんて見られたくない」ってのは、「メガネを外すと意外に美人」っていうアレである。ただ、画面からは負のオーラが出まくり。実はこの水野、かなり哀れである。というのも、主人公の男と3年あまり付き合ったが、自分はちっとも愛されていないと自分自身で気づいちゃったわけ。嗚呼、どうしてかくもメガネちゃんは不幸なのか!?




メガネ=フェティシズム論 〜それは「萌え」ではなく、純粋の変態性欲〜

 こうしてメガネちゃんについて述べてきたのは、どうやら小生がメガネフェチであることが発覚するに至ったからだ。メガネが発する負のオーラとパッケージで、メガネとそれに付随する人物を愛でてきた。それは「原辰徳はファンを大切に思うだけではなく、ファンを愛してきたのです。ファンが原を信じ、愛し、応援することと全く同じように、原もまたファンを愛し続けた」(http://www.youtube.com/watch?v=CxzURkBaguQ&feature=related)関係と寸分も違わない。(言っておくが、小生は巨人ファンじゃない。)以前、ベッキー的な健康さというか、天真爛漫さに胡散臭さを感じると言ったのは、この考えが起源になっているような気がする。遠い昔の記憶であるが、互いにメガネをかけたままセックスした時、異常に興奮したのを覚えているww




「自由意志」としてのメガネ 

 メガネをかけている人間の分岐点として、コンタクトという選択肢が出てくる。で、世間では多くの人がそちらを選択する(はず)。小生の持論として、そういう選択肢があるにも関わらず、敢えてメガネをかけ続けた人間ってのは、“天邪鬼”だと思っている。要するに、「自由意志」としてのメガネ。見た目は軟弱でイモっぽいが、芯は強い。小学校の頃から「メガネ!」、「メガネ!」と言われたであろう、そういった人を愛でるのは、小生の趣味である。にわかメガネに生粋のメガネの心の内なんてわかりませんよ、という言わば選民思想ですな。




メガネの原風景

 中学の時、K女史ってのがいた。彼女はそれはそれはダサいメガネをかけていた。ただ、素材はよかった。中学生の小生にもそれはわかった。先に記した水野のそれと全く同じ。ただ、K女史はフツーの人間だったのだろう、3年生くらいからコンタクトにした。小生はそれが残念でならなかった。友人がいなかったから、そもそも学校へは行きたくなかったが、K女史がコンタクトにして、もっと行きたくなくなった(笑

全く、余計なことを書いてしまった。性癖を晒して何になるのかという後悔.......。メガネ君、メガネちゃんの前途を祝して、乾杯。


人間が光をめがけて殺到するのは、もっとよく見るためではなく、もっとよく輝くためである。――そのひとの前にいれば自分も輝くようなひとを、人びとは好んで光と見なす。 ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』より「漂泊者とその影」254番

 あ〜、胃の調子悪。